日本人は、他者に同情はしても共感はしない。
日本のように、宗教感のない国には、共感なんて存在しない。
この意見。みなさん、どう思います?

(久しぶりに、マンデルセンター卒業生が3人揃いました!何年ぶりだろう。)
昨日のファンドレイジングセミナー、利他行動論がテーマだったんです。経済学、文化人類学、感情科学、脳科学、行動経済学、様々な角度から利他行動を坂本文武さん(立教大学特任准教授)に解析していただきました。
その中で、「共感」という言葉が日本の中で明確に出てきたのは70年前くらいで、その前にあった概念は「あわれみ」とかの感情であったという話があり、もともと日本人には同情はしても共感するという感覚はなかったのではないかという話があったという次第です。
会場からは、そもそも、共通の宗教観がないと、共感なんて生じえないのだ、という意見も出ていました。
その論からいくと、日本人は、世界で最も共感性がない民族ということになります。
ふーむ。
面白い議論ですので、私の考えを書きますね。
これ、共感というのが、「共に感じる、つまり、相手の感情を理解すること、相手の感情を自分も同じように感じようとすること」と考える。すなわち、相手が苦しいとき、楽しいとき、悩んでいるときに、理解したり同じように感じたりしようとうることと考えますね。
そのうえで、
私は、これまで世界43ケ国で仕事をしてきました。そこの現場で一緒に仕事をしてきた人も含めると世界60ケ国以上の人と仕事をしてきています。その自らの経験から断言できることがひとつあります。
それは、
「日本人は、世界で最も共感性のあるひとたちである。」
日本人ほど他者との共感性に敏感で、共感性を大切にしている人たちはちょっといない。それは確信できますね。
これって、むしろ、宗教観の厳密な縛りがない社会だからこそ、私たちは共感性を大事にしてきたんじゃないかと思います。つまり、明確な日常の社会的な意思決定の規範(宗教)がないので、その場の空気やみんなの和の中で常に意思決定をしています。
そこには合理的な判断というよりは、その場にいる人たちが何を感じているのか、どういう感情をもっているのかをとても大切にしてものごとを決めていきます。
そういう社会を何千年も続けているわけですから、当然、他者への共感性は無意識下の中に、当然の感覚としてあるのだと思います。なので、あえて言語化されてこなかったのかもしれません。
欧米社会はそうではないかもしれません。明確な「相互独立的自己観」(アジアの場合は「相互協調的自己観」というそうです。自分の快・不快感情を自分が感じることを主体で形成するか、対人関係から受け取る感情で形成するかという違い、なんだそうです)がある社会では、他者に「共感する」ということは、能動的・積極的な行為として規定しないといけないのかもしれません。
「よっこらしょ」と共感するわけですね。だから宗教の規範も必要です。
日本は、島国で、均質性の農耕社会であったこともあり、共感があたりまえにそこにあった。でも、海外とのお付き合いの中で、自分たちの「当然」を言語化する必要がでてきた。それが70年前の「共感の言語化」なのだと思います。
生物本能的にも、他者に共感性を示すことが、環境適応し、遺伝子の生存可能性を高めるうえでもスゴク重要な社会だったのだと思います。
しかし・・・・
日本人の「共感性」は、その「あたりまえ」感の中で、能動的なものでなかったのかもしれません。
「相手に理解してもらえてあたりまえ」「言葉に出さなくても理解してもらえる」「あうんの呼吸」
これって、みんな共感性を当たり前に受け取っている社会だからなのだと思います。
なので、あたりまえすぎて、「共感して、共感に基づいて何かアクションを起こす」という能動性には、壁があるんじゃないかと思うのです。
文化人類学者の中根千枝さんがいっていましたが、「ほどこしのお金」という感覚は日本にあった。同情で行動することは、震災の支援を見ても分かるように、既に日本社会は壁はないし、壁を超えてしまっている。
でも、相手の夢とか、社会をよくする想いとか、頑張りとか、そうしたものに応援する、共感するということについては、まだ能動的な行動につながりきってきていない。
しかし、いっぱいいい芽が出てきています。
「あいつ、スゴイ頑張っているやん。応援したろうや」
そういう感覚で、新しいイノベーションをおこすチャレンジを応援する「ファンの輪」が広がり、いろんな社会のトップリーダーが手伝って、イノベーションが実現する事例は、この10年ものすごい増えています。
こうした、日本人の心の中にあたりまえにある共感を能動的なアクションまで押し上げていくのが、ファンドレイジングです。
ファンドレイジングの本質は、日本人の心の中に当然のようにある「共感性」を呼び覚まし、行動につなげるチャレンジです。
さらに、共感性を身近な範囲から半歩大きくしていく。それが社会の課題を解決する力を日本人につけていく。
もちろん簡単じゃない。
しかし、だからこそ、日本社会が次のステージにいくイノベーションなんです。
ファンドレイジングは社会を変える
次世代の子供たちのために、未来の日本社会のために、日本人が世界に誇れる、「共感性」を社会の変革のエネルギーにする。
そのチャレンジ、これからも頑張っていきましょう。
いやあ、自分の考えていることを、深く再確認できる。すばらしい機会でした。
日本のように、宗教感のない国には、共感なんて存在しない。
この意見。みなさん、どう思います?

(久しぶりに、マンデルセンター卒業生が3人揃いました!何年ぶりだろう。)
昨日のファンドレイジングセミナー、利他行動論がテーマだったんです。経済学、文化人類学、感情科学、脳科学、行動経済学、様々な角度から利他行動を坂本文武さん(立教大学特任准教授)に解析していただきました。
その中で、「共感」という言葉が日本の中で明確に出てきたのは70年前くらいで、その前にあった概念は「あわれみ」とかの感情であったという話があり、もともと日本人には同情はしても共感するという感覚はなかったのではないかという話があったという次第です。
会場からは、そもそも、共通の宗教観がないと、共感なんて生じえないのだ、という意見も出ていました。
その論からいくと、日本人は、世界で最も共感性がない民族ということになります。
ふーむ。
面白い議論ですので、私の考えを書きますね。
これ、共感というのが、「共に感じる、つまり、相手の感情を理解すること、相手の感情を自分も同じように感じようとすること」と考える。すなわち、相手が苦しいとき、楽しいとき、悩んでいるときに、理解したり同じように感じたりしようとうることと考えますね。
そのうえで、
私は、これまで世界43ケ国で仕事をしてきました。そこの現場で一緒に仕事をしてきた人も含めると世界60ケ国以上の人と仕事をしてきています。その自らの経験から断言できることがひとつあります。
それは、
「日本人は、世界で最も共感性のあるひとたちである。」
日本人ほど他者との共感性に敏感で、共感性を大切にしている人たちはちょっといない。それは確信できますね。
これって、むしろ、宗教観の厳密な縛りがない社会だからこそ、私たちは共感性を大事にしてきたんじゃないかと思います。つまり、明確な日常の社会的な意思決定の規範(宗教)がないので、その場の空気やみんなの和の中で常に意思決定をしています。
そこには合理的な判断というよりは、その場にいる人たちが何を感じているのか、どういう感情をもっているのかをとても大切にしてものごとを決めていきます。
そういう社会を何千年も続けているわけですから、当然、他者への共感性は無意識下の中に、当然の感覚としてあるのだと思います。なので、あえて言語化されてこなかったのかもしれません。
欧米社会はそうではないかもしれません。明確な「相互独立的自己観」(アジアの場合は「相互協調的自己観」というそうです。自分の快・不快感情を自分が感じることを主体で形成するか、対人関係から受け取る感情で形成するかという違い、なんだそうです)がある社会では、他者に「共感する」ということは、能動的・積極的な行為として規定しないといけないのかもしれません。
「よっこらしょ」と共感するわけですね。だから宗教の規範も必要です。
日本は、島国で、均質性の農耕社会であったこともあり、共感があたりまえにそこにあった。でも、海外とのお付き合いの中で、自分たちの「当然」を言語化する必要がでてきた。それが70年前の「共感の言語化」なのだと思います。
生物本能的にも、他者に共感性を示すことが、環境適応し、遺伝子の生存可能性を高めるうえでもスゴク重要な社会だったのだと思います。
しかし・・・・
日本人の「共感性」は、その「あたりまえ」感の中で、能動的なものでなかったのかもしれません。
「相手に理解してもらえてあたりまえ」「言葉に出さなくても理解してもらえる」「あうんの呼吸」
これって、みんな共感性を当たり前に受け取っている社会だからなのだと思います。
なので、あたりまえすぎて、「共感して、共感に基づいて何かアクションを起こす」という能動性には、壁があるんじゃないかと思うのです。
文化人類学者の中根千枝さんがいっていましたが、「ほどこしのお金」という感覚は日本にあった。同情で行動することは、震災の支援を見ても分かるように、既に日本社会は壁はないし、壁を超えてしまっている。
でも、相手の夢とか、社会をよくする想いとか、頑張りとか、そうしたものに応援する、共感するということについては、まだ能動的な行動につながりきってきていない。
しかし、いっぱいいい芽が出てきています。
「あいつ、スゴイ頑張っているやん。応援したろうや」
そういう感覚で、新しいイノベーションをおこすチャレンジを応援する「ファンの輪」が広がり、いろんな社会のトップリーダーが手伝って、イノベーションが実現する事例は、この10年ものすごい増えています。
こうした、日本人の心の中にあたりまえにある共感を能動的なアクションまで押し上げていくのが、ファンドレイジングです。
ファンドレイジングの本質は、日本人の心の中に当然のようにある「共感性」を呼び覚まし、行動につなげるチャレンジです。
さらに、共感性を身近な範囲から半歩大きくしていく。それが社会の課題を解決する力を日本人につけていく。
もちろん簡単じゃない。
しかし、だからこそ、日本社会が次のステージにいくイノベーションなんです。
ファンドレイジングは社会を変える
次世代の子供たちのために、未来の日本社会のために、日本人が世界に誇れる、「共感性」を社会の変革のエネルギーにする。
そのチャレンジ、これからも頑張っていきましょう。
いやあ、自分の考えていることを、深く再確認できる。すばらしい機会でした。



