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ロンドン行きの飛行機の中で、こんな本を読みました。

なかなか面白い本で、物事を哲学的に考えるということが、つまりは、人間の行動の原理を解明しようということなんだなということが、初めて分かりました。

平等とは何か、自由とは何か、政府とは何か、共同体とは何か、そうした根源的な問いかけを非常に分かりやすい事例で、ジレンマを解説してくれます。

「寄付」って社会にとって何なんだろう?

ということを常日頃考えていますが、とどのつまりは、日本なりの「共同体」の最大幸福の実現のために、寄付という行為が必要であるということが、腑に落ちるような形で説明できるかどうかだと思います。

ただ、悩ましいのは、共同体の利益の短期的最大化と長期的最大化が相反することがあるということ。短期的には、マジョリティが幸せになる施策を講じて、マイノリティは切り捨てても、共同体全体の幸福値は高まります。(ベンサム的功利主義の世界というらしいですね)

障害を持つ子どもが生まれたら、座敷牢に入れて見えなくしてしまうことで、共同体には、その子があたかも存在しないようにすることで、みんなが安心するというような、江戸時代の社会の状況は、こうした発想に近い。

しかし、共同体のマジョリティを常に重視すると、マジョリティが間違った状態にあった場合、修正したり、あるいは、批判を受けて更に進化したりといった機能が社会から失われてしまう。

加えて政府という主体が社会の幸福を規定するかのように資源の適正配分を全て決定してしまうような社会は、多様な視点による長期的な幸福値の高まりが阻害されてしまう(ミルの自由論的な世界観)。

人間の本質は、快楽の最大化と苦痛の最小化にあるとしたベンサムやミルの発想。

そこに、更にそうした概念を超えた、人権などの「普遍的価値」の議論が加わってきたのが歴史の流れであると。

しかし、人権などの議論が今日されるときにも、結構議論は混在していて、人権が「そもそも重要である」からそう主張しているのか、「功利主義的」に考えて、共同体にとってデメリットがあるからそう主張しているのかが混在しているという指摘もありました。

日本社会は、ある意味、ベンサム的は共同体の最大幸福追求の発想が明治維新以降、ずっと続いてるのかもしれません。その反動に、内向きの個人益的発想も生まれました。しかし、その発想の持つ限界もあり、長期的には、多様な主体による公共があることが、共同体の利益にとってプラスであるというのが今の流れなんでしょう。

アメリカのリバタリアン(政府を最小限にして、市場に全てゆだねることで幸福の最適化が図られる)の発想は極端としても、共同体の「空気」が全てを支配する傾向や、政府という、社会の一つの機能に対して自らの最大幸福の定義づけをゆだねることに慣れすぎている社会である日本にとって、寄付という行為は、共同体における最大幸福の定義主体を個人に戻す作業なのかもしれません。

そのことにより、近代化以降、経済は発展しても、何か成熟しきれない日本社会において、共同体の最大幸福を個人が発想していく社会への脱皮が図られるのかもしれません。

うーん。もっと考えてみます。

何かひらめきつつあるんですが、まだカタチにならない。